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三国無双8 その21 張遼伝

山田さんクリアしました


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魏の将としての活躍は今までより少なくなったかなあという印象。

相変わらず強いけど少し使いにくくなりましたね。


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腕の動き凄い

 


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本人のストーリーより敵で出てきてた時の方が目立ってたなあと思いつつもやはり合肥が終わりエンディング

 


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わりといつものパターンのエンディングでした。

彼自身は非常に魅力的なキャラだけどなあ。やることが一緒だからなあ……

臧覇とか出したらまた変わりそう。

 

以下解説

張遼

字:文遠

キャラ選択時の台詞「いざ! 張文遠、戦場に身命を賭さん!」

はじめ呂布配下の将として各地を転戦したが、呂布の敗死後、曹操配下となる。
常に冷静沈着で、的確な判断を下して戦場を掌握した。魏の五将軍の筆頭に挙げられる。
義を重んじ、敵に対しても礼を忘れない人物である。

 

武力が常人を越えていることから丁原に見出され、採り立てられた。

後に兵士を連れて洛陽に上り、何進の命で河北に赴き、募兵で1000人を集めて帰還した。しかしその時には、既に何進は宦官に殺害されていた。張遼は兵を率いたまま、丁原らを排除して実権を掌握した董卓の配下となり、董卓王允呂布に暗殺されると、呂布の配下となった。

呂布が下邳で曹操に敗れて処刑されると、張遼は麾下の将兵と共に曹操に降伏した。

 

袁紹曹操が決戦した官渡の戦いでは、その前哨戦である白馬の戦いにおいて、劉備からの降将である関羽と共に先鋒を務め、顔良の軍を破った。曹操関羽が去ろうとしているのを察して張遼にそれを問わせ、関羽は正直に本心を吐露した。張遼関羽を兄弟と呼び、敵ながら親交があった。

 

曹操袁紹を破った後、反乱を起こした東海の昌豨を夏侯淵と共に長期間包囲し、昌豨の心をよく推察し、夏侯淵の同意を得て説得の任にあたり降伏させた。昌豨が降伏した時、単身で昌豨の家族に挨拶したが、この事は大将がするべきではないと後日曹操から叱責を受けている。

 

陳蘭・梅成が氐族と手を組み反乱を起こすと、于禁臧覇らと共に討伐に赴き、張遼張郃らを率いて陳蘭の攻略を担当した。于禁らが攻略を担当した梅成は早々に降伏したが、その後再び反乱を起こし、陳蘭と合流するため灊山に入った。灊山も陳蘭が篭る天柱山も要害で、険しい道しか存在しない難所であったが、張遼は山の下に陣営を置き、部下の反対を押し切って陳蘭と梅成を攻撃し、2人の首を斬り、その軍勢を降伏させた。

于禁張遼に兵糧を送り、臧覇が援軍の孫権を撃退したので、張遼はこの戦いに専念できた。

曹操は諸将の功績を調べ、張遼の功績を特に称え、領地を倍増した。

 

張遼楽進、李典と共に合肥に駐屯していたが、孫権が十万の大軍を率いて侵攻してきた。曹操は漢中に遠征していたが、三将に文書で「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城で護軍を守れ」という指令を与えていた。張遼はこれに基づいて作戦を立て、楽進が共に城を守り、張遼は李典と共に出撃して敵軍の出鼻を挫くことにした。

三人は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は問わないとし、共同してこれに当たった。夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛を殺して将兵に振る舞い、翌朝出撃した。

張遼は先頭に立って敵陣に突入し、敵兵を数十人殺し、2人の将校を斬り、孫権の将旗の近くまで迫ったので、驚いた孫権は武器を持って戦いつつ退走した。

張遼孫権の軍勢が丘に逃げたのを見ると、孫権らに「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権張遼らの軍勢が極めて寡兵であることを見てとり、大軍をもって何重にも囲んだが、張遼は配下の兵と共に包囲を破って脱出した。残りの兵たちは「将軍、私たちを見棄てるのですか」と叫んだ。

張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。孫権の兵馬は皆道を空け、思い切ってぶつかる者もなかった。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。

この余りに苛烈な攻撃に、孫権軍の先遣部隊はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。結局、孫権は十数日間ほど合肥城を包囲したが、落す事はできずに撤退した。

これを見た張遼は七千余人を引き連れ、城から出て追撃した。この時、孫権は最後衛で配下の武将らと共に撤退の指揮を執っていた。退路には川が流れており、逍遥津に小師橋という橋が架かっていた。この時、逍遥津の北には孫権とその近衛兵千余人と、呂蒙、蒋欽、凌統甘寧が残るのみであった。張遼は敵軍深く斬り込み、孫権軍は凌統が死にもの狂いで殿軍を務め、これに応戦した。

孫権は命からがら橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されていたため、孫権は飛騎してこれを越えたと言われる。張遼らは凌統の配下300人を全滅させ、凌統は全身に傷を負いながらも、孫権が退却したことを知ると泳いで逃げた。

張遼は、この戦いの中で一時孫権に肉薄しながらも、孫権軍の陣容や隊列が自軍の攻撃で乱れ切っていたため、誰が孫権なのかは分からなかった。戦いの後、孫権軍の降兵から自らが目撃した「赤髭で背が高く、短足で馬を巧みに操り、騎射の上手い将軍」が孫権自身であったことを知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねたことを惜しんだ。

 

濡須口の戦いでは臧覇と共に先鋒を務めた。この時、大雨が降って水位が上がり本軍が後退したため、孫権軍が迫ってきた。

将士は不安になり、張遼は撤退を考えたが、臧覇曹操が自分たちを見捨てることはないから命令を待つべきだと反対した。次の日に撤退命令があった。

 

 

反乱を起こした孫権を討つため、曹丕張遼に命令し、曹休と共に海陵に行き、長江の畔に布陣することを命令した。張遼は病身であったが、孫権は「張遼、病むと雖も当るべからず。これを慎め(張遼が病んでいるのだとしても、軽々しく挑んではならず、これには危機感を持って当たらなければならない)」と言い、その猛将ぶりを部下に戒めたという。

張遼曹休臧覇と共に呂範を破った。後に孫権軍の徐盛や全琮は臧覇を反撃して破り、尹魯を討ち取ったが、孫権軍は勝利に乗じて曹休張遼などを打ち破った。その後、病が重くなり江都で死去した。曹丕は涙を流しその死を悼んだ。