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三国無双8 その17 荀彧伝

荀彧クリアしましたー


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使ってて楽しかったです。

出て次で武器を没収されるとは思いませんでしたけど…

個人的にはもうちょっと曹操と仲良しにしてよくない?と思いました。

 


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イ、イケメンだ…

新しい帝になるのは嫌だけど曹操様好きすぎるからこれからも監視しますね!!!的なヤンデレ的なエンドでした。

曹操様のリアクションが完全にヤンデレを前にした時のそれ。

 

以下解説

 

⑦荀彧

字:文若

 

キャラ選択時セリフ
「荀文若……才の限りを尽くしましょう」
 

曹操の覇業を支えた軍師。

数々の助言、献策を行い、若くして「王佐の才」と称された。

また、持ち前の慧眼と広い人脈を武器に、人材発掘にも手腕を発揮した。

 

 

 

当初弟の荀諶、それに同郷の辛評や郭図は袁紹に仕え、荀彧も迎えられたが、荀彧は袁紹は大業を成す事の出来ない人物だと判断し、荀彧は袁紹の元を去って曹操の元に赴いた。

荀彧を迎えた曹操は「わが子房である」と大いに喜んだ。子房とは前漢張良の字であり、劉邦が智者の張良を幕下に加えて覇をなしたことになぞらえたのである。


曹操董卓への対策を尋ねられた荀彧は、董卓が自滅することを予言し、その通りとなった。
 

曹操が徐州の陶謙を攻めたとき、荀彧は程昱と共に曹操の根拠地である兗州の留守を任された。

しかし、曹操の盟友であったはずの張邈と従事の陳宮呂布を引き込んで謀叛を計画した。荀彧の守る鄄城には張邈から「呂布曹操の援軍にやって来たので城を開けてくれ」と使者がやってきたが、荀彧はすぐに謀反を見破り、濮陽にいる夏侯惇の元へ使者を送って合流させた。このころには兗州の大半が呂布らに呼応して曹操に敵対しており、手元に残された留守の兵力はわずかで、しかもほとんどの軍吏が呂布らに内通している状態であったが、荀彧は呼び寄せた夏侯惇に軍の反乱分子を一掃させ、反乱の芽を摘んだ。ちょうどそのとき、隣国の郭貢が数万の兵士を率いて荀彧の元を訪れたが、荀彧は夏侯惇の心配を退け郭貢と直接の面談に及び、郭貢を中立な立場にとどめることに成功した。

さらに、程昱を派遣して、曹操に味方していた范と東阿の支持を確実なものにするなど、曹操陣営に残った三城を曹操の帰還まで死守した。

そして、帰還した曹操に荀彧は程昱の功績を称えた。
 

後に献帝長安を脱出し、洛陽に逃れてきていた。荀彧は曹操に対してこれを迎え入れるべきだと献言し、曹操はこれを受け入れて献帝を許に迎え入れた。

この功績により曹操は大将軍となった
曹操は出征して都の外にいるときでも、軍事と国事に関する全ての事を荀彧に相談した。

 

あるとき、曹操が荀彧に「君に代わってわしのために策を立てられるのは誰か?」 と聞くと荀彧は「荀攸鍾繇です」と答えたので、荀彧が多忙であるとき、曹操は常にその二名を幕僚とした。

また、これより前に、曹操が策謀を相談できる相手として戯志才を推挙し、その死後は郭嘉を推挙した。
 

名士であったその人脈や人物眼から、官僚の推挙や人材発掘に長け、登用した人材で大臣に昇る者は十数人を数えたという。
 

曹操袁紹と本格的に敵対した際に荀彧は袁紹陣営の人物それぞれの弱点を事細かに説明した。そして戦いで起きるであろう流れを予測し、
官渡の戦いに於いて、荀彧が言った通りの経緯を示した。
 

荀彧自身は官渡の戦いにおいて、洛陽と許都の行政を仕切るために留守を勤め、後方支援に徹していた。途中曹操が弱気になり、引き上げようかと婉曲に荀彧に手紙を送ってきたことがあった。荀彧はこれに対して、項羽と劉邦の兵糧不足の話を引き合いに出し、退却したい曹操の意図を理解しつつもそれに反対し、必ず袁紹軍に変事があって曹操が奇策を用いる時が来ると励ました。

後に袁紹軍は内部分裂を起こし、曹操は奇襲をかけて袁紹軍を敗走させた。
 

その後も様々な功績で荀彧を昇進、任命させようとするも、彼は実戦には従軍していないからと辞退。

 

与えられた褒美も蓄えるようなことをせず、親類や縁者に配り、家には余財は一切なかった。
 

しばらくした後に、曹操は新たな国を作るべき。と一部の配下は準備を進めていた。

 

この様な動きに対し荀彧は、儒者の立場から「公(曹操)が義兵を起こしたのは、本来朝廷を救い、 国家を安定させる為であり、真心からの忠誠を保持し、偽りのない謙譲さを守り通してきたのだ、 君子は人を愛する場合徳義による(利益を用いない)ものだ、そのような事をするのは宜しくない」と、曹操の腹心の中では唯一、断固として反対の姿勢をとった。しかし曹操は次第に、魏公となる意思を明らかにし始めていた。
 

そして病気となり寿春に残留した。そのまま憂悶の内に死去した。50歳であった。

 

この死には謎が多く、自殺とも言われる。『魏氏春秋』では、曹操から贈られた器の中身が空だったために、その意図を「お前はもう用済みだ」と解釈した荀彧は服毒自殺した、とある(「器は空だった」と正直に言っても「中身があった」とごまかしても主君を誹謗した罪を受けるため)
 

荀彧の功績は極めて大きかったが、多くの者が魏の功臣として祭られる中、荀彧が祭られることはなかった。このことについて、荀彧が晩年に曹操へ異議を唱え、魏の官位を得ることなく亡くなったからと推測されている。