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三国無双8 その14 曹操伝⑧ 漢中戦役解説

曹操クリアしました。

控え目にいって感動しました。


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このシーンが三人で揃う最後と思うと切ない

 


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最終決戦

 

迎えたエンディング。

流石に中国横断するほどの移動は無理があった模様


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ああああ…そんな顔しないで…悲しくなる……

 


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ほんとこのシーンたまらない。。。

 

以下解説

曹操は潼関の戦いに大勝利し、その威信を完全に回復した。これにより西方の憂いが消えた曹操が次に狙ったのは漢中であり、漢中を落とせば蜀も視野に入る。

劉備孫権との間で荊州争奪の争いをしてるすきに漢中へ侵攻した。

峻険な山々に囲まれ天然の要害となっていた漢中は劉邦ゆかりの漢の国名に由来する地であり、戦略的にも漢中と蜀を唯一つなぐ重要な地であった。難攻不落の要衝である陽平関を突破できず、曹操軍は足止めを余儀なくされた。一方、これを迎え撃つ張魯は、出兵すれば多大な犠牲が出ることを恐れ戦には消極的であったが、軍権を任されていた弟にあたる張衛の強硬的な判断によって出兵が断行された。張衛軍は曹操軍を劣勢に追い込み、曹操は形勢不利と見て撤退。曹操劉曄の提案に従い再び陽平関を攻め、曹操が撤退したと思い油断していた張衛軍を夜襲と弓矢の大規模な攻撃で大いに破った。張衛は逃走し、曹操は陽平関を占領した。

 

陽平関が落とされたと知るや張魯は敗走を決めたが、このとき彼は兵糧や宝物を倉に貯めたまま手をかけず、無傷で残したとされる。その後曹操は降伏した張魯の行いを賞賛し、鎮南将軍に任じた。

曹操陣営では「勝利の勢いに乗って蜀へなだれ込むべきだ」という臣下の意見も出たが、曹操はこれ以上の欲は持つべきではなく、漢中制圧という目的は達成したと素早く軍を引き揚げた。

 

劉備は軍師、法正の助言にしたがい、漢中を攻め、兵を派遣して武都を攻略させた。

張飛らに対し、曹操曹洪、曹真、曹休らを派遣して対応させた。このとき曹操は若い世代の武将に多大な期待を寄せ、曹休に対し「お前は参軍だが、実質的な総指揮を執るのだぞ」と語り、総指揮官の曹洪に対してもそのようにするようにと命じた。

曹洪の軍が接近すると、劉備張飛を派遣し、曹洪らの道を遮断する形勢を示したが、曹洪は蜀の将、呉蘭を攻撃した。曹洪の総攻撃を受けた呉蘭の軍は大敗し、張飛馬超は逃亡した。呉蘭雷銅は、曹洪に同盟した氐族の酋長の伏兵にあい斬り殺された。

一方、劉備は陽平関を襲撃し、陽平関を占拠した。

更に劉備は陳式ら十余の軍営をもって馬鳴閣の街道を遮断した。だが、徐晃は別働隊を率いて、陳式らの部隊を破った。

 

劉備軍の本隊五万は定軍山に侵出し、夏侯淵劉備を迎撃した。劉備はまず張郃軍一万人に対し、兵を十部隊に分けて夜襲をかけた。

張郃はこの攻撃は耐え抜いた。劉備は陣を焼き払い、これを機として東の陣を守る張郃を攻撃、張郃軍は劣勢となった。夏侯淵は指揮下の軍の半分を派遣し張郃を救援した。法正はこの期を逃さず劉備夏侯淵を攻撃するように進言したので、劉備は半減した夏侯淵の本隊を攻撃する事にした。黄忠が先陣に立候補し、劉備は法正と黄忠を組ませた。

次に黄忠軍は夏侯淵の本陣から南方十五里離れた所の逆茂木を焼き払った。夏侯淵はこの逆茂木の修復に四百の兵を率いて自ら出向いた。黄忠ら騎馬軍数千人は夏侯淵の本陣の後ろの高所を強引に登り、高所から軍鼓を鳴らし喊声を上げながら奇襲をかけた。夏侯淵は兵を迂回させこれを迎え撃つよう命令したが、夏侯淵の本陣は高所に囲まれ迂回、つまり散開が出来ず黄忠軍から逃げられなくなっていた。抵抗を試みるも魏軍は壊滅し、夏侯淵は斬り殺された。

夏侯淵の息子の夏侯栄夏侯淵が戦死したと周囲の者達から伝えられ撤退を促されたが、「父や兄が戦って死んでいるというのに、何故俺だけが逃げることが出来ようか」と言うと劉備軍に突撃して戦死した。

大将を失った漢中守備軍は浮き足立ったが、夏侯淵の幕僚であった郭淮劉備にも警戒されている名将である張郃こそが大将を引き継ぐに相応しいと考え、全軍に命令を発して張郃を大将に推薦したため、張郃が漢中守備軍を引き継いだ。すると兵士達の動揺はピタリと収まったという。劉備張郃を討ち取れなかったと聞くと「一番の大物(張郃)を手に入れなければならぬな」と語った。

 

この戦いでの曹軍の重鎮である夏侯淵の戦死は余程の大事件であったようで、後の様々な文献で折に触れ扱われる他、史書での記述が大変細く、黄忠は征西将軍、後将軍と昇進し、関羽張飛趙雲馬超と並ぶ軍の重鎮となっている。

 

長安に滞在して諸軍を督戦していた曹操は、夏侯淵の死を聞き、大軍を率いて漢中奪回を図った。劉備は地形を利用して高所に要害を組み、曹操を迎え撃った。劉備は「曹操が来たとしても何もできないであろう、わしは必ず漢川を保有してみせよう。」と語り自信を示した。

しかし数ヶ月に渡って攻撃を続けたが要害に篭る劉備を破ることはできず、日ごとに死者を増やした。曹操が軍議の際に放った「鶏肋」という言葉を楊修は勝手に「魏王様は撤退を考えていらっしゃるのではないか」と判断し撤退の準備を開始した。曹操も結局そのまま撤退し、こうして劉備は漢中を支配したのである

 

この敗戦の翌年、曹操は病のため死去。

「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕後漢献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝追号された。