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三国無双8 その9 曹操伝④の② 官渡解説

袁紹を倒すぞ!

 


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敵地にかわいい豚がいたので記念写真

 


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燃える烏巣

 


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さらば友よ!!!

 

荀攸が加わったおかげで始まる前の盛り上がりはすごくよいです。

ただいつもなら関羽がするところを自分でしなければいけないと思いませんでした…

曹丕とかだとイベント違うんかなあ。

とてもかわいい軍師sのムービーがはいり第4章終わり。

 

え???白狼山なし??嘘でしょ??郭嘉最後の見せ場でしょう…

 

以下解説

袁紹曹操は今や二大巨大勢力となっており、乱世の覇者を決めるべく、決戦は避けられない状況であった。

劉備が徐州にて曹操へ反乱を起こし、袁紹に同盟を求めてきた。

曹操劉備を討つべく、袁紹への先陣を于禁に任せて東征。于禁袁紹を撃退。劉備曹操の来襲を知ると妻子を捨てて逃走し、袁紹の元に身を寄せることになった。

関羽曹操の捕虜となり、曹操の客将となった。

 

遂に袁紹は侵攻の意思を固めるが、袁紹陣営では対曹操の戦略について幕僚同士のさかんな論争が起きた。

沮授は直接戦わず、領土を襲撃し、国力を減らす案。

田豊は持久戦を主張。

郭図は短期決戦を主張したのであった。

袁紹は郭図の案を採用。頑なに持論を主張した田豊は、兵士の士気を低下させるという理由で袁紹に投獄されてしまった。

 

まず袁紹は郭図や顔良らを派遣し、白馬(黄河南岸)に布陣していた曹操軍を攻撃。

曹操は軍師荀攸の策略に従い、于禁楽進の軍を白馬から数キロ離れた延津から渡河させ、郭図を顔良から切り離すことに成功すると、張遼関羽を先鋒として白馬の顔良を攻撃。関羽が敵中深くに斬り込み顔良の首級を挙げたので、白馬の包囲は解かれた。

于禁楽進の軍は黄河沿いに西進し、三十余りの敵陣を焼き払い、将軍何茂・王摩ら二十余人を降伏させた。

 

曹操は白馬の住民を移住させると、白馬の拠点を放棄して西に逃走した。袁紹は今度は文醜劉備の騎兵部隊に曹操の陣を攻撃させるが、荀攸はこれに対して伏兵を使う策略を曹操に進言した。この計に嵌った文醜軍の隊列が乱れたところを攻撃し、文醜を討ち取った。

袁紹黄河を渡り、延津に向かおうとすると、沮授は病気を理由に軍指揮の辞退を申し出た。これに袁紹は憤然とし、沮授配下の軍を郭図に従属させた。

 

曹操は白馬に続いて、延津を放棄し、天然の要塞といえるほど地の利に優れた官渡へ逃走した。

しかし、兵力も食料も圧倒的に足りない状況で苦しい戦いが続く。

劉辟が曹操に対して反乱を起こすと、袁紹劉備を派遣してこれを支援し、許昌周辺を荒らし回って多くの者を寝返らせた。

曹操は本拠地の豫州の維持さえ困難になってきていた。

そしてら曹操陣営の食料は日に日に少なくなっていった。兵糧が枯渇し、連日袁紹軍の攻城にさらされる中、曹操軍内には投降を考えて袁紹と内通する、あるいはそれを考える者が続出した。

弱気になった曹操は、許昌の留守番をしていた荀彧に対して「引き返すことで袁紹軍をおびき寄せて滅ぼすつもりである」という婉曲的に撤退を希望する手紙を出したが、荀彧はこれを強く諌め、「内情を見るに必ず袁紹軍に変事があるので、奇策を用いる機会を逃さなければ勝てます」と進言した。

 

袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降してきた。許攸は烏巣に宿営している淳于瓊が守る兵糧輸送隊の守備が手薄なことを教えて、そこに奇襲をかけるように進言。

曹操の側近の多くはこの許攸の発言を疑ったが、荀攸賈詡はこの意見を支持した。そこで曹操は即座に行動を起こし、楽進と騎兵五千人を率いて淳于瓊軍を強襲した。

淳于瓊軍と救援の袁紹軽騎兵隊を大いに撃破し、兵糧を焼き払った。淳于瓊は楽進に討ち取られた。

そして、張郃と高覧は袁紹を見限って曹操に帰服してしまった。

 

将が寝返り兵糧の多くも損失した袁紹軍は、大混乱に陥って河北へ敗走し、官渡の戦いは終わった。捕虜となった沮授は曹操に仕官を請われたが、沮授は家族が袁紹に仕えていることから死を願った。曹操は沮授を赦免して厚遇したが、ほどなく脱走を企てた沮授は斬首された。

 

その後、袁紹曹操と再び倉亭で戦ったが敗れた。しかし袁紹の存命中は曹操は河北には侵攻しなかった。袁紹は晩年を反乱の鎮圧にあてるが、発病し吐血、翌年に憂悶のうちに死去する。

袁紹の没後、後継者争いが勃発するが、曹操はそれに乗じて袁家を殲滅。

曹操華北全域を支配する圧倒的な勢力へとのし上がったのであった…