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三国無双8 その6 曹操伝②+董卓討伐解説

第2章クリアしました。

 

曹仁曹休楽進、李典、典韋が加入。

あとおまけに陳宮

曹仁仲間になるの早くない???徐州からかと思っていたけど、3章で仲間になるキャラ多すぎるから調整されたのかな。

曹休はムービーで加入イベントをする好待遇。石亭で負ける人なイメージだったがイケメンだし、CV佐藤拓也だしかっこいいぜ!

 

董卓暗殺~失敗からの脱出ですが、正史では董卓曹操を仲間に入れようとして拒否したため、命を狙われ洛陽を脱出となっています。


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暗殺記念写真

 

 

幼なじみの袁紹に誘われて董卓を討伐!

恒例行事の袁術の兵糧止めを解決しつも、華雄呂布を撃破。


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丁度よく雨がふってかっこよかったので記念写真

 

董卓を倒して終わり。

まあこの辺りはストーリーは一緒ですよね。

許昌に着いた所で今回は終わり。

 

以下解説

董卓は勝手に劉弁(少帝)を廃位し陳留(献帝)を皇帝に即位させたり、洛陽の富豪から金品を強奪したり、女官を凌辱するなど暴虐の限りを尽くしていた。

 

董卓の専横に反発した橋瑁が公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作る。

それに応じて諸国の将軍、豪族らはらはそれぞれ数万の兵を率いて挙兵し、袁紹を盟主として反董卓連合軍を結成。

曹操は家財を使って義兵を集め、5千の兵を率いて反董卓連合軍に参加。

当初、董卓政権に参加していた袁術は、曹操袁紹から遅れて洛陽を脱出し、南陽へ逃れて孫堅と合流。

一方で、董卓は前皇帝の劉弁を毒殺した。

 

しかし、董卓の軍は強大であったため、率先して攻め込むものはおらず、会議と酒盛りに明け暮れていた。

曹操らは消極的な袁紹らに業を煮やし、董卓軍に戦いを挑んだが、董卓配下の徐栄に大敗。多くの者が戦死し、曹操も矢傷を負った。

曹操は帰還すると、諸将の前で自分の計略を語ったが、採用されなかった。曹操は兵が足りなかったため、揚州へ兵を集めに行った。

 

一方で袁術孫堅の素行が悪いと聞き、彼の軍に兵糧を送らなくなった。孫堅は自ら魯陽にいる袁術に会いに行き、「私がわが身を投げ出すのは、上は国家のために、下は将軍(袁術)の家門の仇を報じるためです。それなのに将軍は陰口を信じて、私を疑うのですか?」と袁術に論じた。

そう、董卓によって袁術の親族が処刑されているのであった。

袁術孫堅のためにすぐに兵糧を手配させ、孫堅は自分の軍営に戻った。

 

袁紹董卓により擁立された献帝に対抗すべく、皇族の劉虞の擁立を計画したが、劉虞自身が拒絶。擁立されることはなかった。

 

そんな打つ手なしの状況を打破したのは孫堅である。

董卓胡軫呂布を派遣して、孫堅を攻撃させた。しかし、長距離の遠征に軍は疲労困憊であった。呂布らは胡軫に反感を抱いており、胡軫の作戦を失敗させようとし、「孫堅が逃げたから追撃すべきです」と誤情報を流した。

そこで胡軫呂布らは徹夜で軍を進めたが、孫堅軍は堅く防衛体制を敷いており、勝てそうになかった。そこで胡軫らが甲冑を脱いで休んでいると、呂布は「孫堅軍が出撃してきた」と誤情報を流した。

胡軫らは慌てて逃げたが、敵軍はどこにもいなかった。夜が明けて孫堅軍を攻めようとしたが、相変わらずの防衛体制であったため、有効な攻撃をかけることもできず撤退した。その後、孫堅は出撃して大いに董卓軍を破り、董卓軍の華雄を討ち取った。

演義では関羽が討ち取ったことになっている。

 

孫堅はその後も董卓との戦いを優勢に進めた。董卓は形勢不利と見て、洛陽の町を焼き払って長安に撤退した。

 

董卓長安に着くと太師と称し、一族を皆朝廷の高官に就け、外出するときは天子と同様の青い蓋のついた車を乗り回すようになった。長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳したために、貨幣価値が乱れた。長安近くの郿に長安城と同じ高さの城壁をもった城塞を築き、30年分の食糧を蓄えていたという。暴虐ぶりはあいかわらずで、逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、なお平然と酒を飲んでいたという。

 

董卓が都において信任したのは司徒の王允と、養子の呂布であった。

董卓王允を尊敬して朝政を任せると共に、武勇に優れた呂布に身辺警護させていた。しかし、王允もまた心中では董卓の暴虐を憎み、士孫瑞と共に謀議をめぐらせていた。あるとき、小さな過失から呂布董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになっていた。

王允らは呂布の不安に付け込み、暗殺計画の一味に加担させた。

 

董卓献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は同郷である李粛と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。しかし、呂布董卓を殺害した。

事件後、長安・郿に居た董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された。

長安の庶民は、董卓の死を皆で喜んだ。

 

一方で曹操は黄巾討伐の命を受け、自ら鎧をまとって黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した

 

そして、孫堅豫州を治めていたが、袁紹は周喁に豫州を治めるように派遣したので、孫堅袁術は周喁と豫州を奪い合い戦うこととなった。これにより袁術袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍の同盟は崩壊し、多くの武将が己の勢力伸張を目指す群雄と化した。後漢の支配力は大きく低下し、戦乱の時代が本格的に始まったのである。